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東京高等裁判所 昭和42年(う)1589号 判決 1968年11月13日

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は、全部被告人の負担とする。

理由

<前略>所論は要するに、原判決は、被告人の本件「千円札」の創作行為について、いわゆるハプニングとしての要素を含んだ芸術上の表現行為として或は芸術上の作品を創作するための素材を作る行為として行なわれたものであることを認定しながら、弁護人の

①  通貨及証券模造取締法(以下、本法と略称することがある。)第一条は表現の自由を不当に侵害するものであつて、憲法第二一条に違反して無効であり、少なくとも本法第一条を本件「千円札」の創作行為に適用することは憲法第二一条に違反するとの主張

②  本法は、その規制が広汎にすぎるのみならず、同法第一条の、「紛ハシキ外観ヲ有スルモノ」との規定は、あまりにも漠然とした不明確なものであつて、憲法第三一条に違反して無効であるとの主張

③  本件「千円札」の創作行為は、その「千円札」の有する性格、意義等から可罰的違法性或は実質的違法性を阻却するとの主張

をすべて排斥し、被告人を有罪としたが、これは法令の解釈、適用を誤つたものであると主張し、原判決は、実質的には法と芸術との関連性という根源的な問題について十分な理解を欠き、又本件「千円札」の創作行為の芸術的意義と価値について十分把握していない点において不当であると論難し、縷々理由を述べる。

(一)  通貨及証券模造取締法第一条は憲法第二一条に違反して無効である等の論旨について。

およそ憲法第二一条の保障する表現の自由といえども、絶対無制限のものではなく、公共の福祉に反し得ないものであることは、幾多の最高裁判例(特に、昭和二六年四月四日大法廷決定、最高裁民集第五巻第五号二一四頁、昭和三二年三月一三日大法廷判決、最高裁刑集第一一巻第三号九八七頁参照)の示すとおりである。そして右の観点に立ち、通貨及証券模造取締法第一条の規定が抽象的に、憲法第二一条の保障する表現の自由に抵触するものであるか否かを考察すると、原判決も説示したとおり、本法の保護しようとする法益は、刑法上の通貨偽造罪におけるそれと同じく、通貨等の真正に対する社会の信頼、ひいてはそれから生ずる取引の安全を守ることにあると解すべきであるが、特に通貨の模造行為は、未だ刑法の通貨偽造罪を構成する程度にまでは達していないものであつても、当該模造にかかる通貨が、その行使の場所、時、態様或は相手方等、その用い方如何によつては、なお通常人をして真正の通貨と誤認させるおそれがあり、欺罔の手段としても用いられる危険性を帯有する程度に達している場合においては、本法第一条により刑罰をもつてその模造行為を禁止しようとしているのである。けだし、現在の経済社会において国家権力により制度化され、又一般世人にとりあまりにも身近で且つ深刻な関係を有する通貨一般の、取引上果す役割にかんがみれば、前記のような真正な通貨と誤認されるおそれ及び危険性を帯有する通貨の模造行為は公共の福祉に反するものとして、もはや憲法第二一条の保障する表現の自由の保護に値するものとは認め得ないからである。従つて、本法の立法理由は合理的なものと解され、所論のように本法第一条自体が抽象的に、憲法第二一条に違反して無効であるとは到底いえない。

よつて次に具体的に、本法第一条を本件「千円札」の創作行為に適用することが憲法第二一条に違反するか否かについて検討すると、本法第一条にいう「紛ハシキ外観ヲ有スルモノ」とは、前叙のとおり模造通貨が通常人をして真正の通貨と誤認させるおそれがあり、欺罔の手段としても用いられる危険性を帯有する程度のものと解すべきところ、原判決も摘示したとおり本件「千円札」の現物は、いずれも一面刷りとはいえ、真正の千円札の表側と全く同一寸法、同一図柄のものであり、しかもその図柄は直接真正の千円札をもとにして写真製版の方法を用いて印刷したもので、相当精巧なものであるばかりでなく、その色彩は真正の千円札の基調となつている色と同系の黒ないし緑である点等に徴すれば、裏面が真正の千円札と全く異なつた図柄或は白紙であること等を考慮に入れても、なお、前述した真正の通貨と誤認されるおそれ及び危険性を帯有しているものと認めざるを得ない。そして、このような通貨の創作行為は憲法第二一条の保障する表現の自由の保護に値しないことは前記のとおりであり、又右のようなおそれ及び危険性の存否は純客観的に、即ち創作品自体からして判断すべきものであつて、創作者の観念、主張等の主観的意図によつて影響さるべきものではないと解すべきであるから、たとえ本件「千円札」の創作行為が、芸術家である被告人においてハプニングとしての要素を含んだ芸術上の表現行為等として行なつたものであるとしても、その行為は本法第一条に違反するといわなければならない。従つて原判決が被告人の本件「千円札」の創作行為に同条を適用したことは、何ら憲法第二一条に違反するものではない。

よつて、以上の諸点に関する論旨の主なものについて若干言及する。

原判決が、所論のように法を秩序維持の機能からのみとらえ、秩序優先の思考の前に、芸術性の存在を無視した結果、本法第一条を本件「千円札」の創作行為に適用したものではないことは、原判文を仔細に検討すればおのずから明らかである。勿論、芸術の一つの目的と価値は、既存の秩序、日常的、伝統的思考や生活様式に疑問を投げかけ、その正当性を問い、新たな価値と秩序の形成や思考を追究するにあることは、特に原判示のような戦後の抽象芸術ないし前衛芸術の動向に徴すれば、所論指摘のとおり肯認できるとしても、所論のように法が社会の変化と進歩を認め、芸術の右のような役割を認める限り、法が芸術に対してとるべき態度は、芸術的価値に対する謙譲と自己抑制であつて、これを規制することではないとはいえない。既に説示したとおり、芸術上の表現行為といえども、公共の福祉に反することは許されないのであるから、本件「千円札」の創作行為の芸術性は一応認め得るとしても、同「千円札」が、前記のような真正の通貨と誤認されるおそれ及び危険性を帯有するものと認められる以上、その創作行為は法の規制を受けなければならないのは当然であつて、所論のようにその芸術性が右のおそれ及び危険性に対し優越性を確保しなければならないとは到底考えられない。又所論は、右の芸術性の主要な成立要件である被告人の創造性は、当時流通していた千円札紙幣を題材に選んだということ自体であり、同時にそれを模型と呼ぶにふさわしい形で、技術的、認識的に見事に対象化したことである。模型とは、原物の持つている現実上の機能や効用を抽象化し、原物と相似て、原物を構造的に明らかにしたものを指称し、本件「千円札」は千円札紙幣を模写したものでも模造したものでもなく、これを題材にしながら、紙幣と絵画のメカニズムを透視して現代人の深い欲望に関係する直感的な認識を形象化したものであると主張する。そして、原審及び当審における数多の証人或は鑑定証人は、いずれも論旨に沿うような供述をしているけれども、これらの供述は、すべて芸術家、美術商或は美術評論家としての立場からなされたものであつて、幾多の傾聴すべきものを含んでいるとはいえ、本件「千円札」が本法第一条にいう「紛ハシキ外観ヲ有スルモノ」に該当することを否定するに足る決定的な証拠とはなり得ないものである。殊に、本件「千円札」は模型であることを理由に、その芸術性及び被告人の創造性のすぐれている点を強調する論旨については、本件「千円札」が前記のとおり真正の千円札の表側と全く同一法、同一図柄のものであるばかりか、写真製版の方法を用いて印刷されたものである点等においてかえつて模写的、模擬的要素すらうかがうことができ、全面的に賛意を表し難い。又所論は表現の自由の優越的地位と制約の法理と題して、被告人の本件「千円札」の創作行為が有罪とされるためには、同表現が相対立する法益に対し重大な実質的害悪を生ぜしめる明白にして現存する危険を有すると認められるものでなければならないと主張するけれども、本法第一条所定の通貨の模造罪が成立するためには、単に、取引手段である通貨に対する社会の信用を害する危険発生の蓋然性を有するものを製造することをもつて足ると解されるのであるから、論旨は前提を欠き失当といわなければならない。

(二)  通貨及証券模造取締法は憲法第三一条に違反して無効である等の論旨について。

所論は、通貨制度に対する信頼を守るという目的は、刑法第一六章通貨偽造の罪をもつて十分達成できるのであつて、そのうえ本法のような広汎な規制をなす必要は存しないのであるから、本法は憲法第三一条に違反して無効であると主張する。

本法が明治二八年に制定されたものであり、その後約七十年を経た現代においては、既に通貨制度が確立され、紙幣の印刷技術、紙質等の水準も極めて高度のものとなつたことは、所論の指摘するとおりである。しかしながら、所論のように明治二八年当時本法の制定を必要とした立法事実はほとんど消滅したとか、本法はまずこの点において存続の実質的、合理的な必要性と根拠を失つた等とは必ずしもいい難い。既に前記(一)において言及したとおり、通貨の果す重要な役割にかんがみれば、未だ刑法の通貨偽造罪を構成する程度にまでは達していないものであつても、真正な通貨と誤認されるおそれがあり、欺罔の手段として用いられる危険性を帯有する程度の模造通貨について、その製造の段階においてこれを処罰することは、十分合理的な理由があるものと認められるのであつて、しかも、このような模造通貨が製造ないし販売されるおそれがないとはいえないことは、現在の社会事情のもとにおいてもこれを肯認せざるを得ない。従つて、通貨に対する社会の信用、取引の安全という保護法益について、一方において刑法の通貨偽造罪による規制と、他方において本法による規制とが並存しているとしても、少しも奇異ではない。たとえ、所論のように現代芸術においては紙幣等が芸術家の表現の題材として取り上げられることが多くなり、それがそれなりの歴史的必然性と意義を有するにかかわらず、本法が効力を有しているため、同法により規制される結果となるとしても、前記のような通貨一般の性格等に照らし、芸術家としてこれを受忍すべきことは、やむを得ないところといわなければならない。それ故、本法が、罪刑法定主義の見地から刑罰を科する手続が妥当な手続であるべきことを定めた憲法第三一条に違反しないことは明白である。

又所論は、本法第一条の、通貨等に「紛ハシキ外観を有スルモノ」との文言はあいまい不明確であつて、同条はこの点からも憲法第三一条に違反して無効であると主張する。

しかしながら、原判決も説示したとおり、又当裁判所においても前記(一)においてこれを是認したとおり、本件第一条の「紛ハシキ外観ヲ有スルモノ」との文言は、これを合理的に解釈することが可能であつて、憲法第三一条の罪刑法定主義の要請に反する程度に不明確なものとは認められないから、この点においても、本法第一条が憲法に違反して無効であるとは到底考えられない。論旨は、原判決の説示した右文言の解釈は、裁判の基準としても、国民の行為の指標としても全くあいまいで紛わしいと論難する。いうまでもなく、当該創作物が「紛ハシキ外観ヲ有スルモノ」であるか否かの判断は法解釈の問題であり、裁判所が右の判断をなす場合の基準は、一般社会において行なわれている良識、即ち社会通念であつて、裁判官は右の社会通念に従いこれを判断すべきものであるところ、原審が、本件「千円札」が真正の千円札に「紛ハシキ外観ヲ有スルモノ」に該当すると判断するにあたつて摘示した前記解釈は、右社会通念上妥当なものと認められ、従つて論旨もまた失当といわざるを得ない。

(三)  被告人の本件「千円札」の創作行為は可罰的違法性或は実質的違法性を欠くとの論旨について。

しかしながら、本件「千円札」の創作行為が未だ可罰的違法性或は実質的違法性を欠くものであると認め得ないとの点については、原判決が説示したとおりであり、その説示には、論旨の主張するような、本件「千円札」の芸術的意義、性格、価値等について十分把握しないことによる不当な点等はいささかも認められない。しかも、その創作枚数も約三百枚一回、約九百枚二回計約二千百枚の多数にのぼる事実は、これらの違法性の欠如を認め難い一つの証左ということができる。そして、論旨指摘のような、右「千円札」の模型としての性格から必然的に規定された芸術上の表現に限られる用途、場所、人等の限定性及び特定性等を考慮に入れても、前記結論に消長を及ぼすものとは考えられない。

その他、所論及び当審弁論要旨に徴し、記録を精査、検討し、更には本件「千円札」の一部を含む多数の証拠品を点検し、なお当審における事実取調の結果を参酌、考量しても、原判決には法令の解釈、適用の誤は存在しない。

以上のとおり、論旨はすべて理由がない。(三宅富士郎 石田一郎 金隆史)

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